ラジウム・ダイヤル社の惨劇の光景 ジャネット・マスリン
時計の文字盤に発光する数字を描き込むのは、当時としては素敵な仕事に思われていただろう。古い写真では、1920年代のイリノイ州オタワ市のラジウム・ダイヤル社で働く10代の女の子たちは、とても幸福そうに見え、高給を貰っていたので、裕福そうにも見える。輪郭で描かれた数字の内部を塗りつぶすのには技術が必要で、仕事もやりがいがあっただろう。この繊細な作業をするために、従業員たちは、筆先を唇でなめることを推奨されていた。
その結果はキャロル・ランガーの『ラジウム・シティ』でも語られている通り、想像を絶するような悪夢よりもはるかに恐ろしいものであった。多くの女性がラジウムの影響で癌になり、その多くが若くして命を落とした。ランガーはそのことについて、酷な伝え方として、オタワ市の抱える問題のうちのほんの少しであることを作中の早い段階で伝えている。いずれにしてもそれは発端であり、ランガーの『ラジウム・シティ』は段階を追う毎に更に悲惨となる話を伝えている。『ラジウム・シティ』はそれらの出来事の複雑な結末に関して、その医学的結果と同じく十分に意識的に、その社会的・政治的影響について述べている。そこには、誰も想像ができないほど身も凍る現実の恐怖の話が浮かび上がってくるのである。
ラジウム・ダイヤル社の従業員たちが病にかかってからは、本作によると、とある訴訟が会社に重圧を加えることになったと伝えられている。そのために、会社は廃業し、そしてまた、町の別の場所で、ルミナス・プロセス社という新たな名で営業を再度開始した。若い女性たちは、危惧しながらも、働きつづけたのであった。(「19歳だと、危険なことについて誰も何も問いはしないし、必要な仕事をするだけ。」とインタビューを受けたうちの一人の女性は答えた。)当時は大不況であり、第二次世界大戦によってルミナス・プロセス社はさらに確固たるものになっていった。その社長はアルバート・アインシュタインやルーズベルト大統領と面会して戦争への協力をし、ルミナス社は使用する可能性のある原子爆弾のためのポロニウムを作り出すために、施設を利用し始めていた。
その間、死亡者数は増え続け、さらに巨大な謎に町は覆われていた。3名の老女たちは、彼女たちの姉の死について、医者が検視をする前にも関わらず、死亡後すぐ真夜中に埋葬されたことを思い返した。
戦後、原子力委員会は、墓地で高線量の放射性物質を検出するオタワ市の状況について調査をはじめた。(3名の老女は、撮影当時に検査のために墓地から掘り起こされた姉の遺体から放射性物質が抜けるのには、何世紀もかかると聞いたと語った。)委員会は、多くの研究結果について機密事項としている。そして、1968年に、ラジウム・ダイヤル社の建物は解体され、その跡地は、その後しばらく精肉工場として使用されていた。とある女性は精肉工場を営んでいた家族のうち一人以外は癌で亡くなったことを語った。
建物のかけらは町中に散り散りになり、埋め立てられた。ひとりの男性は、残骸からあさってきた古いカウンターを、自宅の地下室に設置していることを自慢し、別の男性は1年前に検査のために誰かに持ち去られるまで、建物にあった装飾品を個人で保管していた場所を示した。その場所にはすでに何もないにもかかわらず、ガイガーカウンターは反応している。ここだけではなく、町中のほとんどの場所が同じ状況である。出生異常率は高く、ペットたちは病弱だ。あるひとりの猟師はひどく変形し、腫瘍に被われた鹿を仕留めることを恐れていた。
『ラジウム・シティ』は町の人々がこの恐ろしい事実と事実自体についてどのように取り組んで行くかについての話である。住人たちの怒りや悲しみを描くのと同時に、また別の人たちの恐れや、熱狂的な働きかけについても注目している。
ランガーのインタビューでは市長はやんわりと、問題を軽んじて答えいたが、地元でガイガーカウンターを持ち歩く自警団をするケン・リッチが撮影した市議会のヴィデオでは、無礼な質問をした者は警察によって退場させるとの断りの上で、現状廃社となったルミナス・プロセス社の建物の取り壊しについて議論している姿が捉えられている。
オタワの住民にはいろんな度合いでの受容、苦渋と混乱があらわれ、彼らの生活の困難さがランガーによって垣間見えることにより、感情もまた浮き彫りになっている。
ある信心深い女性の若い息子は癌を患っており、彼女は信仰と絶望について語っている。彼女が、神は息子を早くお迎えに来るべきなのかもしれないと感じた瞬間があると語った時、その少年の目は大きく見開いた。
ダウン症の妹がいる女性の母親は、ラジウム工場で働き、2回の流産も経験している。彼女の母は「人生で大事なのは、誰と知り合いかではなくて、人として何をするのかなのよ」とよく言っていたそうだが、死ぬ数ヶ月前には、母親は彼女の顔を見て「何を知ってるかではなくて、誰を知ってるかなのよ」と言われたことが悲しかったと語った。
『ラジウム・シティ』はひとつの惨事についてだけではない。(「それは決して隔絶されていない。オタワの工場経営者でもある一族が所有するクイーンズのウッドサイドにある閉鎖されたラジウム工場は、現在調査中である。」)この映画は、まずは工場に働きに出た10代の少女たちの自立を望む気持ちを、そして、苦難に立ち向かう姿とともに育ちが良くて疑問を持たない危険について描いている。ランガーの論調は事実以上に非難的であったり、必要以上にセンチメンタルであったりするが、そのように横道にそれてしまう部分があることは、彼女がこの映画で伝える物語から理解ができる。この話は無視をすることができないほど大事なことであるからだ。
(「ニューヨーク・タイムズ」1987年9月26日)
観客VS厄介なテーマ ジャネット・マスリン
ゆっくりと、恐ろしい死、忌まわしい実験、取り返しのつかない環境汚染、それらは観客が無意識のうちではほとんど聞きたくないことである。それでも、キャロル・ランガーの『ラジウム・シティ』は観客を引き付ける、それが現実のものになる時、監督の手法とともにその巧みさについて賞賛されるのである。その策略は取り扱いにくい題材を受け入れやすいものにして、それがうまくいかず逆効果な時があるにもかかわらず、興味深いという以上に、くぎ付けになってしまう。なぜなら裏目にでるからだ。観客をあまりにも不快な方向へ押しつけ、ともすれば不愉快な題材を(例えば、乱暴で、蔑視的な『チャイナ・ガール』や論外である『悪魔の毒々サーファー』など)、あなたはそれらをギリギリまで押しやる。
イリノイ州オタワ市について、そしてラジウムクロックダイアルの生産工場での恐ろしい問題について語る映画の前半だけだと、観客はすぐに飽きてしまいそうである。オープニングタイトルは宗教的なサウンドで、カメラは執拗に、必要以上にセンチメンタルに、工場で働いていた人たちが眠る墓地を捉える。
さらに言うと、それらは、よくある悲劇的な話にも聞こえる。亡くなった姉?の思い出をまとまりなく話す(うち一人は姉の子供時代のお気に入りのドレスについて語っている)3人の老女たちの優しい声の存在は、ランガー監督は問題点を絞ることに苦労していることを、ほのめかしているようである。その他の残念なことは客観性の欠如である。ランガー監督は経営者家族のひとりであるジョセフ・A・ケリー・ジュニアの立場について全く説明しようとしていない。
しかしながらランガーは力強く語っている。彼女はこの惨劇についてのありふれた見解を勢いよく越えて、新たな展開に切り出している。オタワ市が当初の被害からこれまで、この問題についてどのように対応してきたかについてさらに悲観的な見方をしている。事実を受け入れることができず、避けようとしている市民がいること、放射性物質が不注意に取り扱われてきたことは汚染自体よりはるかに恐るべきことである。それに加え、ランガーがますます悪い状況になる証拠と記録を冷静に積み重ねるにつれ、客観性は問題でなくなるような勢いを持つようになる。この話にはまた別の立場があるのを想像することはますます難しくなってゆく。(ケリー氏の変更として、彼は最近、クイーンズのウッドサイドで経営する別工場での同じ汚染問題について取材している記者からのインタビューを断っており、本作のような映画に出演する可能性は薄くなった。)
つまりランガーはこの多くの環境汚染についてのストーリーが行き着くところよりも先までこの作品を展開させたことにより、そしてこの尋常でない危機へのオタワ市の反応が恐ろしいほど普通であることを捉えたことにより、観客が最初に感じるかもしれない抵抗を、完全に回避している。話自体は、驚くほど寒々しく、無視することができないほど人の心をつかむのである。数名のオタワ市民、特に、ガイガーカウンターを手に町をさまようケン・リッチのような自称自警団員として警告と行動する役割を担った人物、一方的に理解ができない大勢の人々を困惑させることにもなる。このようなストーリーはヒーローのような存在が必要で、リッチはその期待通りの人物なのである。
(「ニューヨーク・タイムズ」1987年9月26日)
『ラジウム・シティ』の放射線問題で、脚光を浴びる町 トム・ヴァレオ
『ラジウム・シティ』は若い女性たちがイリノイ州オタワ市で、ラジウムを使用した文字盤の製造工場で受けた放射能汚染の被害についての話である。
1980年に私はラジウムの文字盤の塗装工(ダイヤル・ペインター)について取材をするためにイリノイ州のオタワに向かった。腕時計や置き時計の表面や計測器を暗闇で発光させるために、何年もの間ラジウム塗装を施していた女性たちである。
彼女たちは長年にわたってかなりの量の放射線を浴びており、また、雇用主からは冷淡な処置も受けていた。多くの者が亡くなり、多くの者が腫瘍や骨障害に苦しんだ。
それにもかかわらず、彼女たちはその問題について口を開こうとはしなかった。1930年代に一人の放射能汚染の被害者が起こして世間の注目を浴びた訴訟によって、オタワ市を「死の町」と呼ぶ大見出しが並んだため、多くの地元民は、今回のダイヤル・ペインターの取材によりその当時のあだ名が再び呼び起こされてしまうことを恐れた。私は、過去に工場で勤務をしており、取材を受けてくれた方たちのインタビューをもとにラジウムがオタワ市にもたらした被害についての報告記事を書いた。
そして今回、ニューヨークの映画監督キャロル・ランガーは『ラジウム・シティ』という新作ドキュメンタリーで、ラジウム・ダイヤル・ペインターたちの話をスクリーンに持ち出した。
ランガーは、被害者たちが戦い抜く決意を表した側面からもこの問題について映画で語っている。これは、私が1980年に取材した当時には存在しなかったことである。
「私は、ごく一般の人でも、民主的なやり方を振り起こしてやってみると、彼らのコミュニティーの環境を統制する力があることを伝えたかったのです」とランガーは彼女のニューヨークのスタジオでの取材で語った。
『ラジウム・シティ』はふたりのナレーターを中心に展開する。一人は1922年に開業したラジウム・ダイヤル社の最初のダイヤル・ペインターのうちの一人、そしてもう一人は工場からの汚染によって残されたホットスポットを探し出すために町中をガイガーカウンターで追跡する男性、ケン・リッチである。どちらもシンプルに率直に語り、強烈な印象を残す。
前従業員のマリー・ロシターは、ラジウム・ダイヤル社で働いていた若い女性たちは、文字盤を描くためのブラシの先を尖らせるために、唇を使うよう指導されていたことを語った。彼女の親友で同僚のキャサリン・ドナヒューは1938年に亡くなる僅か数日前まで数千ドルを会社から授けられており、マリーはこれまでに多くの同僚が癌で亡くなったのをみてきた。マリーの骨格はラジウムで大きな被害を受けており、彼女の足は骨格障害により腫れ上がり炎症を起こしている。
マリーは仕事終わりに若いダイヤル・ペインターたちが残ったラジウム塗料を使って暗闇で光るあご髭や口髭を顔に描いていたりしたことを述べた。「ある子は歯にも塗料を塗っていて。彼女は塗料が乾くまで口を開け、暗室に彼女が入ると彼女のスマイルだけが浮かび上がっていた。」とマリーは述懐する。
その当時、オタワ市では誰もラジウムが危険だとは疑わなかった。事実、ラジウムは関節炎から高血圧まで全ての良薬とうたわれており、医者によってはラジウム注射を施す医者もいた。
1938年になってキャサリン・ドナヒューが勝訴し、ラジウム・ダイヤル社がさらなる訴訟を避けるために倒産したことで、ようやくラジウムの危険性は広く認知された。
しかしながら経営者のジョゼ・ケリー・シニアは、数ブロック離れた場所でルミナス・プロセス社という新会社を立ち上げ、1977年に工場内の高線量のラジウム汚染により、州の調査官に強制封鎖されるまで営業を続けていた。ラジウム・ダイヤル社の工場跡は精肉工場になり、ランガーがとあるオタワ在住者に聞いたところによると、精肉工場を営んでいた家族のうち一人以外は全員癌で亡くなってしまったらしい。工場が解体された際にがれきは町中にばらまかれ、数えきれないほど多くのホットスポットを生み出している。
ケン・リッチはガイガーカウンターでごみ廃棄場を計測していた時に、ホットスポットを発見した。彼が映画で説明するには、それは冬の日に一部だけ雪が溶けたスポットを見つけたことに始まる。彼がそのスポットにガイガーカウンターを近づけるとガイガーカウンターは激しく音を立てて、地表から相当量の放射線量が放出されているのを計測した。長年にわたり、リッチは町中で同様のホットスポットを見つけている。(地元の墓地で、元ダイヤル・ペインターたちが埋葬された墓では、彼らの骨に残ったラジウムが計測されている。)
リッチは彼がガイガーカウンターを片手に町中を歩いて調査しているのは、多くの住民は少し異常に思っていることを認めているが、彼は人々に危険が間近にあることを説明し、それを食い止めるように喚起している。イリノイ州が資金を豆乳して汚染されたルミナス・プロセス社の工場を解体した際に、町の人々は地元のごみ埋め立て地にがれきを埋めるように申し出をした。(がれきはワシントン州の核物質処理場に輸送されている。)
ランガーの映画が示すように、問題は存続している。ホットスポット近辺で育った子どもたちは癌を患っている。ラジウム・ダイヤル社の工場跡地側に住む一人の男性は、彼の犬たちには絶えず腫瘍ができ、短命であると訴える。狩人たちは腫瘍で変形した鹿を持ち込む。
しかしランガーは恐怖を伝えることが彼女の目的ではないと主張する。それよりむしろ、人々がその生活を切り開いていくことについて伝えたいのである。「これはフランク・キャプラの映画のようだと言われる」そして彼女は「これは現実だけど」と言った。
(「デイリー・ヘラルド」1988年2月4日)