『ラジウム・シティ』へのお誘い
 2012年の春、前年のフクシマから1年が過ぎた頃、『ラジウム・ガールズ2011』と題されたアルバムが届けられた。プロジェクト・アンダークと名付けられたバンドは3人編成で、ドイツ人のディーター・メビウスの作ったベースのトラックに、Phew、小林エリカのふたりがメロディと歌詞を載せていた。イヴリンとかトレイシーとかキャサリンとか固有の名前を持つ女性たちが、そこでは主人公だった。

 彼女たちには実在のモデルがいる。1世紀ほど前のアメリカで、ラジウムを使っての夜光塗料工場で働いていた、ごく普通の女性たちだ。特別なことなど考えてもいない。働いて給料をもらい買い物をして楽しいひとときを過ごす。いずれ結婚もして、家庭を持ち、子育てをし、いつかその子どもたちも若者になり、輝く青春を謳歌するだろう。ありがちな未来。平凡でささやかな夢に覆われた彼女たちのあるはずだった未来は、ラジウムが放つ放射性物質によって一気に崩れ去る。

 何の防護もなく、知識もないまま作業中に被爆した彼女たち。ある者は命を絶たれ、ある者はさまざまな障害を背負い、その重荷とともに生きていくことになった。

病を生き延びた女性工員たちは、もはやかつてのようには未来を見ることができない。その不自由な身体を引きずりながら、会社や政府に対して訴訟を起こす。まさか自分がそんなことをするとは、病気以前の彼女たちは思いもしなかっただろう。病の前と後。その時間と歴史の切断を超えて闘う彼女たちは「ラジウム・ガールズ」と呼ばれるようになる。

 アルバム『ラジウム・ガールズ2011』が歌うのは、そんな彼女たちの物語だ。もちろん実際の彼女たちのことではない。想像上のラジウム・ガールズたち。いや、今ここにいるラジウム・ガールズたちの物語が、そこでは歌われていた。つまり、「今ここに」と思わざるを得ないような状況の中で作られた歌が、そこにはあった。

 そしてある日わたしはPhewと会い、彼女たちに取材して作られた「Radium City」と題されたドキュメンタリーがあることを教えられた。25年以上前の映画だ。すぐにYouTubeにアップされたそれを観た。誰もがイメージする公害や労災の訴訟の際の、どこか悲痛な空気を、彼女たちは持たない。あるはずの未来を夢見た輝けるガールだった頃の何かが今も彼女たちに貼り付いて、今の彼女たちを作っているのだとも言いたくなる。年齢や病気で変貌したその姿とはまったく関係ない。最悪の事態のその暗闇の中で、彼女たちは自然発光する。力強ささえ感じた。

 アルバム『ラジウム・ガールズ2011』から伝わるのも、その奇妙な明るさと強さである。かつて夢見られた未来は閉ざされたかもしれないが、それ故にその暗闇の中で輝く一歩をごく当たり前に踏み出した彼女たちの現在が、まさに彼女たちの未来としてそこにあるのだと、彼女たちの奇妙な明るさと力強さは語っているように思う。彼女たちの今こそが彼女たちの未来なのである。アルバムから見えて来るその姿が、映画には古ぼけた映像を通してはっきりと映っているのが見えた。

 だとしたら、アルバムだけでなく映画も上映して初めて、日本における「ラジウム・ガールズ」の物語は完結するはずだ。いや、完結するというよりも、それがいくつもの物語の種となり日本中に広がり出し、多くのラジウム・ガールズやボーイズの物語を生み出していくはずだ。まさにラジウム・ガールズこそが、わたしたちの今であり未来であるのだ。

 つまりこの映画を観た潜在的なラジウム・ガールズやボーイズであるわたしたちは、気がつくとどこかでふと、輝ける小さな一歩を踏み出しているに違いない。そしてそれが、断ち切られたわたしたちの未来を当たり前の現在に変える。そんな奇跡が当然のように起こるだろう。1世紀後、わたしたちは世界中の人々から何と呼ばれているだろうか?
樋口泰人(boid主宰)
イントロダクション
ラジウム・シティ 文字盤と放射線・知らされなかった少女たち
Radium City


1987/アメリカ/105分/白黒・カラー/モノラル

出演:マリー・ロシター、エディス・ルーニー、ジェーン・ルーニー、ジーン・ルーニー、ケン・リッキ、
シャーロット・ネビンス、マーサ・ハーツホーン、キャロル・トーマス、ジェームス・トーマス、ウェイン・ウィスブロック、
ドン・ホール、ロッキー・レイクス、ボブ・レイクス、メアリー・オズランジ、スティーブン・オズランジ、ジャニス・キーシッグ、
ジョアン・キーシッグ、環境汚染と闘う市民の会

監督・プロデューサー:キャロル・ランガー
音楽:ティミー・カペロ
撮影:ルーク・サッシャー
編集:ブライアン・コトナー、キャロル・ランガー
録音:ジョン・マーフィー

配給:boid
字幕:映画美学校映像翻訳講座


ラジウム・ガールズ―――1920年代アメリカ、ラジウム・ダイヤル社の工場で時計の文字盤に夜光塗料を塗るペインターとして働き被爆した若い女性たち。筆先をなめて尖らせるよう指導された彼女たちは、その後、腫瘍や骨障害で苦しみ、多くが亡くなっていった。のちに5人が雇用主を提訴、長い裁判を経て勝訴したが、ほどなく全員が亡くなる。 『ラジウム・シティ』は内部被曝の存在が広く知られるきっかけとなったラジウム・ガールズたちと、その後の街に生きる人々を描いたドキュメンタリーである。 舞台となるのは、アメリカ中西部のイリノイ州オタワ市。 かつてラジウム・ダイヤル社の工場で多くの人々が亡くなったこの街では、 半世紀以上たってもなお、取り壊された工場の欠片が町中に散らばり、ホットスポットを生み出している。 キャロル・ランガー監督は、かつてのラジウム・ガールズやその家族、そしてオタワの住民たちによる証言を記録し、一本のフィルムとして完成させた。 目に見えない放射能による被害、企業や政府の隠蔽体質、恣意的に引き上げられる安全基準値、地域経済における産業と雇用の抱える困難・・・彼らの証言によって浮き彫りにされるさまざまな問題は、現代を生きるわたしたちにとっても決して無縁のことではない。 本作は国内外の映画祭で高い評価を受け、米国のみならず各国のTV局で放映、アカデミー賞候補と目された。また、米国環境保護庁がオタワの除染作業にスーパーファンド法を適用するきっかけにもなった。
プロジェクト・アンダーク
ラジウム・ガールズ 2 0 1 1
Radium Girls 2011

Project UNDARK(Phew,ErikaKobayashi)
music Dieter Moebius(Cluster)

http://projectundark.com/

発売中
定価¥2,625(税抜価格¥2,500)
制作・発売元:BeReKeT
プロジェクト・アンダークとは、Phewと小林エリカによって作られた音楽ユニット。2012年に発表されたアルバム『ラジウム・ガールズ2011』は、この『ラジウム・シティ』に着想を得て作られたもの。アルバムは、当時その場にいたかもしれない架空の「ガールズ」それぞれの歌によって構成される。彼女たちのあり得たかもしれない未来と、それを夢見たかもしれない過去が浮かび上がらせる彼女たちの現在が、それを聞くわたしたちの現在へと繋がる。このアルバムによって『ラジウム・シティ』は日本公開されることになった。

『ラジウム・シティ』日本公開に寄せてへ    小林エリカ

「妖精の光」と科学者マリ・キュリーが呼んだその青白く発光する放射性物質ラジウムの光を、人間がその歴史のうちではじめて手にしたのは1902年のことだった。

それは子ども向けの伝記にも記される偉大な瞬間だ。

マリとピエールのキュリー夫妻は、雨漏りするおんぼろの研究室で研究にうちこみ、11トンのものピッチブレンド(瀝青ウラン鉱—ちなみにドイツ語でPechblendeは「不幸の石」を意味する)から、遂に0.1gのラジウムを取り出すのだ。

私もその話をどこかで読んで知っていた。絵本だったかもしれない。そして私はそれを単純に働く女性だとか努力だとか科学の進歩を教え諭す逸話のひとつくらいにしか考えていなかった。

私は、キュリー夫人が“放射能”という言葉の名づけ親であることを知らなかったし、その言葉が生まれてから福島第一原子力発電所の放射性物質が漏れ出ているようないま現在に繫がるまでの経緯を、知らなかった。そして、かのラジウムが、その発見の後、いったいどのように扱われたかなど、私は考えてもみなかった。

そんな折りに偶然、私は「ラジウム・ガールズ」と呼ばれる少女たちがいたことを知った。アメリカ、ニュージャージー州オレンジ、1917年の米国ラジウム社にはじまり、各地で、時計の文字盤にラジウム蛍光塗料をペイントし被曝した少女たちのこと。

(そう「妖精の光」ラジウムは、その後、暗闇の中でも光る時計の文字盤の蛍光塗料として使われたのだ!)

働く少女たちは、細い筆でその文字盤へラジウム蛍光塗料を塗りつける。その筆を時折唇につけて整えるよう教えられる。少女たちの髪は、クローゼットは、ラジウムで光り輝いたという。

そうしているうちに、私はキャロル・ランガー監督のドキュメンタリー映画『ラジウム・シティ』に辿り着いた。イリノイ州オタワ、かつてそこにあったラジウム・ダイヤル社とそこで働いていた少女たちを巡る1987年制作の作品だ。

かつて工場で働いた少女、その家族や生存者たちにインタビュー、その街に暮らす人々、街そのものに残されている目には見えない放射性物質。

ただ淡々と丁寧かつ執拗な調査を積み上げてゆく手法と美しい映像のこの映画に、私は釘付けになった。

「ラジウム・ガールズ」たちは決して、ただお金と引き換えにたまたま被曝した不幸な少女ではないし、『ラジウム・シティ』は決して、ただ遠く離れた外国の過去の逸話ではない。それらは、私たちのいまに繫がる、切実なものなのだ。

映画のはじまりには、その街の外れにあるカトリック墓地が映し出される。

「現在も、女工の墓に測定器をかざせば 放射線が検出されるだろう。」

そうしてシンガーのPhewさんと共にProject UNDARKとして「Radium Girls 2011」というプロジェクトがはじまったのであった。
小林エリカ
作家・マンガ家。
2014年「マダム・キュリーと朝食を」(集英社すばる)で第27回三島由紀夫賞候補、第151回芥川龍之介賞候補。
著書は"放射能"の歴史を巡るコミック「光の子ども1」(リトルモア)、作品集に「忘れられないの」(青土社)。
小説にアンネ・フランクと実父の日記をモチーフにした「親愛なるキティーたちへ」(リトルモア)、「空爆の日に会いましょう」(マガジンハウス)。コミックは詩をモチーフにした「終わりとはじまり」(マガジンハウス)など。
クリエイティブ・ガールズ・ユニットkvinaとしても活動中。
ラジウム・シティからラジウム・ガールズへ    Phew

 2011年3月11日からもう3年以上たってしまった。まだ呆然としている。沢山の人が死に、さまざまの出来事がおこった。怯え怒り愕然とし、なにかできることなにかできることをと右往左往しているうちに、自分の目前の生活ですら覚束なくなった。貧すれば鈍す、大震災が起こり原発が爆発したからといって、役立たずだった人間が、いきなり世の中に有用なことができるようになるわけではないのに。あれよあれよという間に、政権は交代し、東京でオリンピックが開催されることが決定し、来年には川内原発が再稼働される見込みとなった。つい1週間前のことが遠い昔の出来事のように感じることもあるし、福島第一原発の事故は、このあいだ、おこったことのようにも思える。時間が一定のテンポを刻みながら、過去から未来へと流れなくなってしまった。

 自分の認識の外にある現実は恐怖でしかない。自然災害は免れ得ないとしても、どこかの時点で人類が違った選択をしたら、2011年の東京で「知覚できないけれども在る」物質に怯えながら暮らすといった事態にはならなかったのではないか。19世紀末にベクレルが放射線を発見しなかったら、第一次世界大戦で同盟国が勝利を収めていたとしたら、ルーズベルトがもう数ヶ月生きながらえていたら、2011年の世界はどのようになっていただろうかと、不遜にも時々考えた。あの年は、日々更新される情報を追うほどに、放射能について調べれば調べるほど、知力気力体力が失せていった。多くの言葉はそらぞらしく響き、多くの歌はうるさく聞こえ、以前なら魅力的に感じた旋律やリズムは力を失い、とても音楽を作る気になれなかった。正しく立派な声明やいさましい議論、数々のチャリティーイベントを横目に、暇を作っては友達に会って無駄話をし、無為の時間をすごした。

 ケーキを食べながら、小林エリカさんから、時計の文字盤を塗装する工場で被曝したラジウム・ガールズたちの話をきいたのは、2011年の秋だったか冬だったか。その日、帰宅してすぐにradium girlsで検索し、ヒットした「Radium City」をYouTubeで見た。衝撃だった。映画に出てくる、ショートボブにパンツルックの女の子たちの、パーマネントのあたった髪に洒落た帽子や靴、毛皮の襟巻きで着飾った女性たちの写真は、なんとなく思い描いていた質素な服装にひっつめた髪の女子工員というイメージからかけはなれていた。ロストジェネレーション、ジャズと禁酒法、フラッパー、女性に参政権が与えられ、第一次大戦の特需に沸き世界最大の経済大国となった1920年代のアメリカ。写真の女性たちも、フィッツジェラルドを読み、仕事が終わるとダンスに出かけ、水着で水泳を楽しんだりしたのだろうか。とりわけ、映画の最初のほうに出てくるラジウム・ガールズたちの集合写真には心を奪われ、何度も繰り返し見た。この八頭身美人はミスアメリカに応募しようと考えたことはなかったのだろうかとか、黒っぽい髪で小柄の内気そうな娘の両親は東欧あたりからの移民でハンガリー刺繍が上手かもしれない、などなど、妄想が膨らんで、果ては、写真の女性達が自分に語りかけているような錯覚に陥った。女性達が放射線障害に苦しめられ悲惨な出来事と闘い始めているころの写真からさえも伝わってくるのは生の響きだった。そして、その残響は、自分のなかのなにかと共鳴し、数ヶ月後には1枚のCDになった。音楽がまたはじまった。
Phew
1979年、アーント・サリー結成。日本の初期パンク・ムーヴメントの中で伝説のバンドとなった。その後、坂本龍一、コニー・プランクなど、国際的な音楽家たちとの共作を発表。一時活動を停止したが、87年から再開。以降、ソロ活動のほか、big picture、NOVO TONO、MOSTなどでのバンド活動も続けてきた。2010年にカヴァーアルバム『Five Finger Discount』をリリース。現在、2013年からはじめた電子音楽のアルバムを録音準備中。
監督プロフィール
キャロル・ランガー Carole Langer

1942年、ニュージャージー州、ジャージー・シティ生まれ。
スタンフォード大学心理学修士卒業後、NYにてGrey Advertising社にて女性初のアカウント・エグゼクティヴとして勤務、1968年には個人の広告会社を設立した。この間、クリオ賞を3度受賞など、CMプロデュース・監督で多数受賞。

1978年、個人の制作会社を設立。CMより長尺の映像制作を始める。ミュージック・ヴィデオやコンサート・フィルムの他、Avis、Volvo、IBM、Warner Brothers社などの企業映像、公共広告なども制作。

1980年、初の長編ドキュメンタリー作品「Joe Albany ... A Jazz Life」をプロデュース・監督。81年ロンドン映画祭にて受賞。その他、ロサンゼルス映画祭、シカゴ映画祭にて受賞。劇場公開時に「The New York Times」紙のヴィンセント・キャンビー記者より評価を得る。PBSとBravoにて全米放映。

1987年の長編作品「Radium City」がリンカーン・センター映画祭にて上映後、多くの国内外の映画祭で上映され、アカデミー賞候補との評価を受ける。劇場公開の他、HBO、The Discovery Channelにて全米放映。Channel Four(イギリス)、Der Spiegel Television(ドイツ)の他、Discovery EuropeやオーストラリアのTV局でも放映される。

1991年「Who Killed Adam Mann?」が「FRONTLINE」にて放映され、翌92年にデュポン賞シルバーバトンを受賞。1993年、AIDS啓発デーに「FRONTLINE」で放映された「AIDS, Blood and Politics」はピーボディ賞にノミネートされ、「The New York Times」紙上にて批評家ウォルター・グッドマンに他局の同テーマの番組と比べ「薄っぺらな内容の番組とは違い、本気の報道である」と評される。

1995年、コメディアン、ジェリー・ルイス初公認の伝記番組「Jerry Lewis: The Last American Clown」を制作し、A&Eネットワークにて放映。批評家より4つ星の評価を受ける。
その後も、女優ジャネット・リーについての伝記「Intimate Portrait: Janet Leigh」(96年)やラナ・ターナーの娘シェリル・クレーンの視点で女優の生涯、1953年の愛人殺人事件の犯人について綴る「Lana Turner… A Daughter’s Memoir」(01年)、ジャネット・リーのベストセラー自伝を題材にした「There Really Was A Hollywood」(02年)など多くの伝記番組を手がけ、1999年、A&Eネットワークの「Biography™」4時間特別番組として放映された「The Rat Pack」は視聴率記録を更新し、エミー賞の全てのカテゴリーにノミネートされた。

2009年に9.11のトラウマに苦しむニューヨーカーたちが求める無条件の愛の必要性についてドキュメンタリー「The Dogs of New York」を制作。彼らのトラウマにより、ニューヨーク市には100万匹もの犬が増え、犬の短時間デイケアサービスは320億ドルのビジネスとなっている。

現在は、伝説の女性物まね芸人ジュリアン・エルティンジについてのドキュメンタリー「Lady Bill… The Story of Julian Eltinge」を制作中。NY芸術基金の支援を受け、2014年12月に完成予定。
出演者
マリー・ロシター Marie Rossiter
ラジウム・ダイヤル社に勤務
新聞に大きな広告が出たの“時計の文字盤作業員 募集”と
パン屋で働いてた私は思った“応募しよう 稼げそうだわ”
給料がパン屋の2倍でね 当時は貧しくて お金が欲しかったのよ
仕事の初日?イヤな作業だと思った
真っ先に教わったのが あの塗料をなめることよ
昼に家に帰ったら 辞めたくなった

初任給は義理の父に渡した
兄弟みたいな年の義父に―
給料を渡して小遣いをもらうの
正直言って不満だったわ
だから17歳で実家を出た
同僚の中には給料を貯めて着飾る子も
今まで搾取されてたと気づき私は義父に激怒した
当時はハイヒールが欲しくて
おしゃれな店の前を通った時思ったのよ
“今週の給料は自分で使ってやろう”とね
それで初めてハイヒールを買った
家まで履いて帰ったら足がすごく痛かったわ

私たちはラジウムが なくなりかけると―
補充に行くと言っては 作業を抜け出したの
よく暗室の中で ふざけて遊んだわ
顔に塗ったりヒゲを描いたり 耳に塗ってた子もいた
私はいつも小鼻のあたりに 塗ってたわ
眉毛とヒゲを描いたし アゴにも塗ったの
歯にも塗った子がいたのよ 口を開けて
塗料を乾かしてから―
3人で暗室に入って にらめっこをしたわ
するとラジウムを 塗った所だけが見える
眉毛やヒゲだけが 光って見えるの
歯もね

初任給が週に17ドル半よ
雑貨店では たった5ドル
仕事より給料が気に入ってたの
買い物も自由よ
なんて恵まれた仕事かといつも思ってた
あの頃は人生を楽しんでいたわ
友達も たくさんいて仲良くしていた
遊びに出かけたり食事もしたわ
時には買い物とか公園にも行ったの
マーガレットは親友だった

10年間 アルゴンヌに通ったわ検査の大半はX線撮影よ
その間 検査の結果は何も教えてくれなかった
ところが事故に遭ったら突然 研究所から女性が来て―
“脚は治るわけないでしょ”と言うのよ
“ラジウムで骨がボロボロだから”と
私は“どうして研究所で教えてくれなかったの?”
そして言ってやった
“いいから早く帰ってよ 何の用もないから”

私は聖フランシス校出身で結婚式もその教会よ
今でも教会に行きたければ誰も止めないはず
でも 膝つき台があると大変だって皆がひざまずく時に―
この脚をどこに置けばいい?台の上 それとも下?
だから座らないで後ろに立つのよ
脚が悪くなる前は通えたけど今じゃ教会には縁がないわね
座れる場所もないし―こんな脚じゃ皆に迷惑よ
家のほうがマシ
だから神父が来る
でも私に近寄らないわ
ケン・リッキ Ken Ricci
市内の線量調査をする市民活動家
オタワの光景は今も1922年当時のまま
ケリーが高校跡地にRD社を移した頃と同じだ
彼が町の女学生を大勢雇ってオタワの運命は一変した

誰も自分の問題を話さない土地柄だ
問題があっても人には言わない
そう教わって育ったのだ
何も言うな 質問するな
誰かに何か言われたらこう答えるんだ
“賛成です”とね
反論はするな
相手が何を言おうと
言い争うな 波風を立てるな
ただ流れに従うのだ
納得できなくても従っておけ
上司が間違っていても敬意を払え
上司を立てることで下の者が犠牲になった
従順なのはいいが 何にでも従うべきではなかった
健康を害することを知らず女工らは働いた
危険な物質を扱う仕事と知らされるべきだった
恐ろしいことだ

家にあった時計でね 気になったんだよ
1927年製の物だし―
文字盤から放射線が出ていないかと
だから測定器で調べてみたんだ
信じられなかった
57年たっても まだ高い放射線量を示している
この文字盤は今でも非常に危険だ
まさに同じ文字盤が―
ここオタワで作られ女工が犠牲になった
おそらく今も同じ時計が全米や世界中に存在する
メーカーが大量生産し全世界に輸出したためだ
ひどい話だ
文字盤を塗っただけで大勢が病気になり亡くなった

町の人々は私を見てこう思ってる
“放射線測定器を持ってひま人が騒いでる”と
よく変人呼ばわりされる
バカだとかムダな抵抗とか言われるよ
それは不愉快だが一方で こうも思う
誰かが行動しないと
当然 そう思うよ “俺は何してる?”とか
“現実から目を背けろ”“新聞など読まず
もう忘れよう”とね
でも放っておけない まだ幼いがん患者を見て―
投棄された放射性がれきが原因かもと思うと腹が立つ

私は個人で測定をしてきたが
専門家による汚染地図を見て
大いに満足した
私が歩いて見つけたホットスポットは―
高度な装置や ヘリを駆使して見つかった場所と一致してた

ボブ、ロッキー・レイクス、ドン・ホール
Bob, Rocky Raikes and Don Hall
ラジウム・ダイヤル社ビルの解体作業人
俺とドン・ホールに選択肢はなかった
仕事欲しさでオタワへ来て解体作業員に応募した
勤務中に何があっても雇用主を訴えないと―
契約書に署名させられた
安全対策会議で俺は責任者に言った
彼は署名させてないって
ウソつきだ
あいつはイリノイ州の役人
つまりサギ師も同然だよ
“現場作業をして37年だがどうなってる?”
2つの部屋のうち一方は防護服を着てたが―
その隣は まるで無防備理解できん
実際 俺は何度か聞いてみたんだ
なぜ防護服一式が支給される者と―
マスクだけの者がいるのか
汚染場所での作業だって何も支給されず―
手袋もせずに働いた
だから俺の被曝量はすごく高い数値だろうよ
新しい靴や服が与えられ作業後は全身洗浄さ
一部の作業員には服の他に旅行資金まで渡された
もちろん州が払うのさ
でも彼らは被曝した
しかも現場は―
すさまじい放射線量だった
だからシャワーとか着替えが用意されたって聞いたぞ

汚染された石は表面を削って搬出したよ
俺たちは外でひたすらレンガを削らされた
でかいバケツを下に置いて―
放射能で汚染された2面を6ミリくらい削った
破片はバケツに入るが―
辺り一面にも散らばるから回収なんて無理だった
汚染ゴミは密閉しろと言われたが
結局 穴から漏れていたんだ
“住民を怖がらせたくない”と言ってたよ
もう少し正確に言うと…
“皆を心配させたくない
ビニールシートも掛けるな”
“オタワ市民を不安にさせるな”
“放射能汚染が風で拡散すると思わせるな”とね
よく聞いてくれ これが事実だ
レンガを削る作業は舗装された場所でやっていた
ホースで洗い流せば破片は どこへ行く?
下水道だ
ジーン、ジェーン、エディス・ルーニー
Jeanne, Jane, Edith Looney
姉マーガレットがラジウム・ダイヤル社に勤務
姉がRD社に就職したのは 高校を出てすぐだった
まだ17歳だったわ
当時 私は13歳だったけど 姉のことはよく覚えてる
これがRD社で働いていた 女工たち つまり姉の同僚よ
ちょうど大恐慌の頃ね
若い娘たちは 皆 工場に勤め―
姉と同じように 時計の文字盤を塗った
給料が高いから 人気の仕事だったの
要するに お金になれば どんな仕事でも構わなかった
自由に使えるお金が 手に入れば―
世間では一人前だものね
そして大勢が亡くなり 聖コロンバ墓地に眠ってる
皆かわいい女の子だった 若くてね
無鉄砲だけど 本当にいい子たちだったわ
お金を稼ぎたかっただけ
自分では無駄遣いせずに 弟や妹のために家計を支えた
あの工場で働けば 家族の誰よりも稼げたから

姉は青いドレスを 私に買ってくれたわ
中学の卒業祝いよ 白い縁取りがステキだった
それから 皆で―
聖コロンバ教会へ行って 卒業式に出たの
女の子も男の子も 皆 おしゃれしてた
私は白い帽子に―
胸元に白いステッチと シャーリングが入ったドレス
気に入ってたわ

最初に姉の歯が抜けたわ
歯がもろくなっていたの ラジウムの影響でね
治らなかったわ
姉は仕事から帰ると 横になって休んでた
町を歩く時には 脚を引きずってた
腰も痛そうだったわ
全身の骨も弱ってた
チャックと6月に 結婚する予定が
姉は前年の8月に 亡くなってしまった
すてきな彼氏だった 最期までね
チャックは姉を―
荷車に乗せて ピクニックに連れていった
姉が歩けないので 荷車を使ったのよ

姉は6年 働いたわ
最後の1年間は本当に具合が悪そうだった
シカゴの医師に姉を診せたら診断は両親の予想どおり
でも医師は“公表できない職を失いたくないから”
なす術がなかった
弁護士に相談したけど明らかに買収されてたわ
できることは何もなく
父は言った“もうよそう 忘れよう”

姉は会社指定の病院に入院させられたのよ
口出しは できなかった
見舞いにも…
姉の病室には入れてもらえなかった
ロビーで待たされそこから見舞ったわ
入院して2週間で姉は亡くなった
夜中の2時頃だったのに病院はすぐ遺体を搬出して
私たちの知らない所に埋葬しようとした
義兄が言ったそうよ“こんな埋葬はありえない”
“カトリック信徒には葬儀ミサを行うべきだ”
病院が解剖の日時を決めたというので
家族の主治医が行ってみるともう終わっていたの
死因は“ジフテリア”
どういう意味か分かるでしょ?
シャーロット・ネビンス Charlotte Nevins
ラジウム・ダイヤル社に勤務
RD社にいたのは15歳から16歳の頃よ
13か月間 勤めただけでずっと病気に悩まされてる
病気のキャサリンを救おうとしたけど 皆に断られたの
皆 病気のことを話さずに亡くなってしまったわ
あっという間に
マーサ・ハーツホーン Martha Hartshorn
ルミナス・プロセス社に勤務
第二次大戦後夫が戻ってきたの
でもオタワには彼の仕事がなくて
私が働くことになりLP社へ行った
採用された時はまだ19歳だったわ
危険かどうかも確かめず仕事に飛びついたのよ
市内で女が働ける唯一の場所だった
1日に8時間時計の文字盤を塗ったわ
1つルールがあって昼休みや帰宅する前には―
ブラックライトの下で塗料を落とすの
手袋なしで作業してたから落とそうとすると血が出たわ
家に帰ってから鏡を見ると髪に光る物がよく付いてた
LP社にいた頃 ある同僚が脚を切断して数年後に死んだ
彼女は以前RD社で働いてLP社にも来た古株だったわ
脚を限界まで切ったけど結局 亡くなって
彼女の夫に1万ドルが支払われた
でもね 私が新人の頃彼女には両脚あったのよ

一度 NYから役員が来て私たちに状況を説明したわ
危険性はないと言われて何人かが質問をしたけど
彼らは何も答えなかったわ
話をそらし 何も認めず
まともな回答はなかった
要するに答える気がなかったのよ
従業員なんてどうでもいいんだわ
会社のために働く道具でしかないの
LP社の工場ではたくさんの物を作ってた
飛行機用の計器に不明な部品も
それが何に使われるのか会社から説明はなかったわ

LP社に勤めていた頃仲間が20人ほど死んだわ
約8割の人たちは どこかに腫瘍があったの 乳房とか―
足とか とにかく体のどこかに
腫瘍が出来てた
私は足の腫瘍を切除したわ
なぜ提訴しないのかと聞かれたけど その理由は―
訴えてもムダだと弁護士に言われたからよ
工場は閉鎖 会社は破産だから訴えなかったの
ウェイン・ウィスブロック Wayne Wiesbrock
オタワ・カトリック墓地の管理人
キャサリンの遺体をアルゴンヌ研究所へ運ぶ時 事前に掘り出したが
棺は重さが1トン以上のコンクリート製だった
研究所の職員たちは大型ワゴン車で来た
だが1トン以上の棺を積んで持ち帰ることはできなかった
だから棺を壊して遺体を取り出したんだ
職員たちが棺を開けたがその時 彼らは―
ビニール製の靴カバーや手袋エプロンまで着けていたよ
メアリー、スティーブン・オズランジ
Mary, Steven Oslanzi
ホットスポット近辺に居住
息子がお腹が痛いと言うので見たら腫れ上がっていた
怖くて医者を呼んだわ
それまでは―
何の前触れもなかった
病名は“肝芽腫”肝臓の小児がんよ
珍しい病気みたい
大きな小児病院でも症例は年に2件ですって
息子は肝臓の約7割を取ったのよ

ジャニス・キーシッグ
Janice Kiesig
母親がラジウム・ダイヤル社に勤務
両親のアルバムの古い写真を見た時―
母や叔母 他の同僚たちの身なりに気がついたの
毛皮の襟のコートや絹のドレスを着て―
スエードの靴を履き後ろには いつも高級車
とても不思議だったわ
祖父母には そんな余裕なかったはずだから
後になって母の話を思い出したの
RD社では10代の娘たちが大金を稼いでいたって
当時の給料としては相当な額だったそうよ
だから高級品が買えたのね

母がどんな人だったかと言うと―
いつも皆に好意的で助けようとしていたわ
誰にでも長所があると思っていた
母は生涯そういう人だった
人の善意を信じ誰にでも尽くしたわ
いつも私に“誰と知り合いかより
人として何をするかが大切よ”と
でも亡くなる数か月前私を見つめて言ったの
“誰と知り合いかが大切”と
悲しかったわ
※人物たちの発言はすべて映画本編の字幕より抜粋
字幕翻訳:映画美学校映像翻訳講座

作品評
ラジウム・ダイヤル社の惨劇の光景    ジャネット・マスリン

 時計の文字盤に発光する数字を描き込むのは、当時としては素敵な仕事に思われていただろう。古い写真では、1920年代のイリノイ州オタワ市のラジウム・ダイヤル社で働く10代の女の子たちは、とても幸福そうに見え、高給を貰っていたので、裕福そうにも見える。輪郭で描かれた数字の内部を塗りつぶすのには技術が必要で、仕事もやりがいがあっただろう。この繊細な作業をするために、従業員たちは、筆先を唇でなめることを推奨されていた。

 その結果はキャロル・ランガーの『ラジウム・シティ』でも語られている通り、想像を絶するような悪夢よりもはるかに恐ろしいものであった。多くの女性がラジウムの影響で癌になり、その多くが若くして命を落とした。ランガーはそのことについて、酷な伝え方として、オタワ市の抱える問題のうちのほんの少しであることを作中の早い段階で伝えている。いずれにしてもそれは発端であり、ランガーの『ラジウム・シティ』は段階を追う毎に更に悲惨となる話を伝えている。『ラジウム・シティ』はそれらの出来事の複雑な結末に関して、その医学的結果と同じく十分に意識的に、その社会的・政治的影響について述べている。そこには、誰も想像ができないほど身も凍る現実の恐怖の話が浮かび上がってくるのである。

 ラジウム・ダイヤル社の従業員たちが病にかかってからは、本作によると、とある訴訟が会社に重圧を加えることになったと伝えられている。そのために、会社は廃業し、そしてまた、町の別の場所で、ルミナス・プロセス社という新たな名で営業を再度開始した。若い女性たちは、危惧しながらも、働きつづけたのであった。(「19歳だと、危険なことについて誰も何も問いはしないし、必要な仕事をするだけ。」とインタビューを受けたうちの一人の女性は答えた。)当時は大不況であり、第二次世界大戦によってルミナス・プロセス社はさらに確固たるものになっていった。その社長はアルバート・アインシュタインやルーズベルト大統領と面会して戦争への協力をし、ルミナス社は使用する可能性のある原子爆弾のためのポロニウムを作り出すために、施設を利用し始めていた。

 その間、死亡者数は増え続け、さらに巨大な謎に町は覆われていた。3名の老女たちは、彼女たちの姉の死について、医者が検視をする前にも関わらず、死亡後すぐ真夜中に埋葬されたことを思い返した。

 戦後、原子力委員会は、墓地で高線量の放射性物質を検出するオタワ市の状況について調査をはじめた。(3名の老女は、撮影当時に検査のために墓地から掘り起こされた姉の遺体から放射性物質が抜けるのには、何世紀もかかると聞いたと語った。)委員会は、多くの研究結果について機密事項としている。そして、1968年に、ラジウム・ダイヤル社の建物は解体され、その跡地は、その後しばらく精肉工場として使用されていた。とある女性は精肉工場を営んでいた家族のうち一人以外は癌で亡くなったことを語った。

 建物のかけらは町中に散り散りになり、埋め立てられた。ひとりの男性は、残骸からあさってきた古いカウンターを、自宅の地下室に設置していることを自慢し、別の男性は1年前に検査のために誰かに持ち去られるまで、建物にあった装飾品を個人で保管していた場所を示した。その場所にはすでに何もないにもかかわらず、ガイガーカウンターは反応している。ここだけではなく、町中のほとんどの場所が同じ状況である。出生異常率は高く、ペットたちは病弱だ。あるひとりの猟師はひどく変形し、腫瘍に被われた鹿を仕留めることを恐れていた。

『ラジウム・シティ』は町の人々がこの恐ろしい事実と事実自体についてどのように取り組んで行くかについての話である。住人たちの怒りや悲しみを描くのと同時に、また別の人たちの恐れや、熱狂的な働きかけについても注目している。

ランガーのインタビューでは市長はやんわりと、問題を軽んじて答えいたが、地元でガイガーカウンターを持ち歩く自警団をするケン・リッチが撮影した市議会のヴィデオでは、無礼な質問をした者は警察によって退場させるとの断りの上で、現状廃社となったルミナス・プロセス社の建物の取り壊しについて議論している姿が捉えられている。

オタワの住民にはいろんな度合いでの受容、苦渋と混乱があらわれ、彼らの生活の困難さがランガーによって垣間見えることにより、感情もまた浮き彫りになっている。

ある信心深い女性の若い息子は癌を患っており、彼女は信仰と絶望について語っている。彼女が、神は息子を早くお迎えに来るべきなのかもしれないと感じた瞬間があると語った時、その少年の目は大きく見開いた。

ダウン症の妹がいる女性の母親は、ラジウム工場で働き、2回の流産も経験している。彼女の母は「人生で大事なのは、誰と知り合いかではなくて、人として何をするのかなのよ」とよく言っていたそうだが、死ぬ数ヶ月前には、母親は彼女の顔を見て「何を知ってるかではなくて、誰を知ってるかなのよ」と言われたことが悲しかったと語った。

『ラジウム・シティ』はひとつの惨事についてだけではない。(「それは決して隔絶されていない。オタワの工場経営者でもある一族が所有するクイーンズのウッドサイドにある閉鎖されたラジウム工場は、現在調査中である。」)この映画は、まずは工場に働きに出た10代の少女たちの自立を望む気持ちを、そして、苦難に立ち向かう姿とともに育ちが良くて疑問を持たない危険について描いている。ランガーの論調は事実以上に非難的であったり、必要以上にセンチメンタルであったりするが、そのように横道にそれてしまう部分があることは、彼女がこの映画で伝える物語から理解ができる。この話は無視をすることができないほど大事なことであるからだ。
(「ニューヨーク・タイムズ」1987年9月26日)
観客VS厄介なテーマ    ジャネット・マスリン

 ゆっくりと、恐ろしい死、忌まわしい実験、取り返しのつかない環境汚染、それらは観客が無意識のうちではほとんど聞きたくないことである。それでも、キャロル・ランガーの『ラジウム・シティ』は観客を引き付ける、それが現実のものになる時、監督の手法とともにその巧みさについて賞賛されるのである。その策略は取り扱いにくい題材を受け入れやすいものにして、それがうまくいかず逆効果な時があるにもかかわらず、興味深いという以上に、くぎ付けになってしまう。なぜなら裏目にでるからだ。観客をあまりにも不快な方向へ押しつけ、ともすれば不愉快な題材を(例えば、乱暴で、蔑視的な『チャイナ・ガール』や論外である『悪魔の毒々サーファー』など)、あなたはそれらをギリギリまで押しやる。

 イリノイ州オタワ市について、そしてラジウムクロックダイアルの生産工場での恐ろしい問題について語る映画の前半だけだと、観客はすぐに飽きてしまいそうである。オープニングタイトルは宗教的なサウンドで、カメラは執拗に、必要以上にセンチメンタルに、工場で働いていた人たちが眠る墓地を捉える。

 さらに言うと、それらは、よくある悲劇的な話にも聞こえる。亡くなった姉?の思い出をまとまりなく話す(うち一人は姉の子供時代のお気に入りのドレスについて語っている)3人の老女たちの優しい声の存在は、ランガー監督は問題点を絞ることに苦労していることを、ほのめかしているようである。その他の残念なことは客観性の欠如である。ランガー監督は経営者家族のひとりであるジョセフ・A・ケリー・ジュニアの立場について全く説明しようとしていない。

 しかしながらランガーは力強く語っている。彼女はこの惨劇についてのありふれた見解を勢いよく越えて、新たな展開に切り出している。オタワ市が当初の被害からこれまで、この問題についてどのように対応してきたかについてさらに悲観的な見方をしている。事実を受け入れることができず、避けようとしている市民がいること、放射性物質が不注意に取り扱われてきたことは汚染自体よりはるかに恐るべきことである。それに加え、ランガーがますます悪い状況になる証拠と記録を冷静に積み重ねるにつれ、客観性は問題でなくなるような勢いを持つようになる。この話にはまた別の立場があるのを想像することはますます難しくなってゆく。(ケリー氏の変更として、彼は最近、クイーンズのウッドサイドで経営する別工場での同じ汚染問題について取材している記者からのインタビューを断っており、本作のような映画に出演する可能性は薄くなった。)

 つまりランガーはこの多くの環境汚染についてのストーリーが行き着くところよりも先までこの作品を展開させたことにより、そしてこの尋常でない危機へのオタワ市の反応が恐ろしいほど普通であることを捉えたことにより、観客が最初に感じるかもしれない抵抗を、完全に回避している。話自体は、驚くほど寒々しく、無視することができないほど人の心をつかむのである。数名のオタワ市民、特に、ガイガーカウンターを手に町をさまようケン・リッチのような自称自警団員として警告と行動する役割を担った人物、一方的に理解ができない大勢の人々を困惑させることにもなる。このようなストーリーはヒーローのような存在が必要で、リッチはその期待通りの人物なのである。
(「ニューヨーク・タイムズ」1987年9月26日)
『ラジウム・シティ』の放射線問題で、脚光を浴びる町    トム・ヴァレオ

 『ラジウム・シティ』は若い女性たちがイリノイ州オタワ市で、ラジウムを使用した文字盤の製造工場で受けた放射能汚染の被害についての話である。

1980年に私はラジウムの文字盤の塗装工(ダイヤル・ペインター)について取材をするためにイリノイ州のオタワに向かった。腕時計や置き時計の表面や計測器を暗闇で発光させるために、何年もの間ラジウム塗装を施していた女性たちである。

 彼女たちは長年にわたってかなりの量の放射線を浴びており、また、雇用主からは冷淡な処置も受けていた。多くの者が亡くなり、多くの者が腫瘍や骨障害に苦しんだ。

 それにもかかわらず、彼女たちはその問題について口を開こうとはしなかった。1930年代に一人の放射能汚染の被害者が起こして世間の注目を浴びた訴訟によって、オタワ市を「死の町」と呼ぶ大見出しが並んだため、多くの地元民は、今回のダイヤル・ペインターの取材によりその当時のあだ名が再び呼び起こされてしまうことを恐れた。私は、過去に工場で勤務をしており、取材を受けてくれた方たちのインタビューをもとにラジウムがオタワ市にもたらした被害についての報告記事を書いた。

 そして今回、ニューヨークの映画監督キャロル・ランガーは『ラジウム・シティ』という新作ドキュメンタリーで、ラジウム・ダイヤル・ペインターたちの話をスクリーンに持ち出した。

 ランガーは、被害者たちが戦い抜く決意を表した側面からもこの問題について映画で語っている。これは、私が1980年に取材した当時には存在しなかったことである。

 「私は、ごく一般の人でも、民主的なやり方を振り起こしてやってみると、彼らのコミュニティーの環境を統制する力があることを伝えたかったのです」とランガーは彼女のニューヨークのスタジオでの取材で語った。

 『ラジウム・シティ』はふたりのナレーターを中心に展開する。一人は1922年に開業したラジウム・ダイヤル社の最初のダイヤル・ペインターのうちの一人、そしてもう一人は工場からの汚染によって残されたホットスポットを探し出すために町中をガイガーカウンターで追跡する男性、ケン・リッチである。どちらもシンプルに率直に語り、強烈な印象を残す。

 前従業員のマリー・ロシターは、ラジウム・ダイヤル社で働いていた若い女性たちは、文字盤を描くためのブラシの先を尖らせるために、唇を使うよう指導されていたことを語った。彼女の親友で同僚のキャサリン・ドナヒューは1938年に亡くなる僅か数日前まで数千ドルを会社から授けられており、マリーはこれまでに多くの同僚が癌で亡くなったのをみてきた。マリーの骨格はラジウムで大きな被害を受けており、彼女の足は骨格障害により腫れ上がり炎症を起こしている。

 マリーは仕事終わりに若いダイヤル・ペインターたちが残ったラジウム塗料を使って暗闇で光るあご髭や口髭を顔に描いていたりしたことを述べた。「ある子は歯にも塗料を塗っていて。彼女は塗料が乾くまで口を開け、暗室に彼女が入ると彼女のスマイルだけが浮かび上がっていた。」とマリーは述懐する。

 その当時、オタワ市では誰もラジウムが危険だとは疑わなかった。事実、ラジウムは関節炎から高血圧まで全ての良薬とうたわれており、医者によってはラジウム注射を施す医者もいた。

 1938年になってキャサリン・ドナヒューが勝訴し、ラジウム・ダイヤル社がさらなる訴訟を避けるために倒産したことで、ようやくラジウムの危険性は広く認知された。

 しかしながら経営者のジョゼ・ケリー・シニアは、数ブロック離れた場所でルミナス・プロセス社という新会社を立ち上げ、1977年に工場内の高線量のラジウム汚染により、州の調査官に強制封鎖されるまで営業を続けていた。ラジウム・ダイヤル社の工場跡は精肉工場になり、ランガーがとあるオタワ在住者に聞いたところによると、精肉工場を営んでいた家族のうち一人以外は全員癌で亡くなってしまったらしい。工場が解体された際にがれきは町中にばらまかれ、数えきれないほど多くのホットスポットを生み出している。

 ケン・リッチはガイガーカウンターでごみ廃棄場を計測していた時に、ホットスポットを発見した。彼が映画で説明するには、それは冬の日に一部だけ雪が溶けたスポットを見つけたことに始まる。彼がそのスポットにガイガーカウンターを近づけるとガイガーカウンターは激しく音を立てて、地表から相当量の放射線量が放出されているのを計測した。長年にわたり、リッチは町中で同様のホットスポットを見つけている。(地元の墓地で、元ダイヤル・ペインターたちが埋葬された墓では、彼らの骨に残ったラジウムが計測されている。)

 リッチは彼がガイガーカウンターを片手に町中を歩いて調査しているのは、多くの住民は少し異常に思っていることを認めているが、彼は人々に危険が間近にあることを説明し、それを食い止めるように喚起している。イリノイ州が資金を豆乳して汚染されたルミナス・プロセス社の工場を解体した際に、町の人々は地元のごみ埋め立て地にがれきを埋めるように申し出をした。(がれきはワシントン州の核物質処理場に輸送されている。)

 ランガーの映画が示すように、問題は存続している。ホットスポット近辺で育った子どもたちは癌を患っている。ラジウム・ダイヤル社の工場跡地側に住む一人の男性は、彼の犬たちには絶えず腫瘍ができ、短命であると訴える。狩人たちは腫瘍で変形した鹿を持ち込む。

 しかしランガーは恐怖を伝えることが彼女の目的ではないと主張する。それよりむしろ、人々がその生活を切り開いていくことについて伝えたいのである。「これはフランク・キャプラの映画のようだと言われる」そして彼女は「これは現実だけど」と言った。
(「デイリー・ヘラルド」1988年2月4日)
背景
『ラジウム・シティ』関連年表

1898年
マリ、ピエール・キュリー夫妻ラジウム発見
1914年
ラジウム・ルミナス・マテリアル社、ニューヨーク市で創業
1914-1918年
第一次世界大戦
1917年
ラジウム・ダイヤル社、イリノイ州シカゴ市で創業
1921年
ラジウム・ルミナス・マテリアル社、ニュージャージー州エセックス郡オレンジ市に工場設立、USラジウム社に社名変更。
⇒約70名の女性がラジウムなどの放射性物質を含む夜光塗料(※1)による文字盤の塗装工として雇われた。1923年までに5人の若い女性がラジウム起因と見られる骨腫瘍などの疾患(※2)で死亡している。
1922年
ラジウム・ダイヤル社、イリノイ州オタワ市に移転
⇒最盛期の1925年頃には1,000人近くの若い女性が文字盤の塗装工として雇われた。
1925年
ニュージャージー州エセックス郡の検視局長が、USラジウム社の塗装工たちを死に至らしめた骨腫瘍や再生不良性貧血の原因を放射性物質とする報告書を公表
1928年
USラジウム社で働いていた5人の女性たちが同社を提訴、「ラジウム・ガールズ」と呼ばれ新聞を賑わし内部被曝の存在が広く知らさせる知らせるきっかけとなった
⇒1万ドル(現在の通貨で1313万7千7,000ドル相当)の賠償金と年600ドル(8,200ドル相当)の年金を要求し勝訴するが、補償金を手にした頃には、全員既に身動きが取れるような状態ではなかった。
1929年
ラジウム・ダイヤル社に7年勤めていたマーガレット・ルーニーが24歳で死亡。/dd>
1929年
ニューヨーク証券取引所での株価大暴落をきっかけに世界大恐慌に突入/dd>
1934年
マリ・キュリー死去
⇒死因は再生不良性貧血と言われる
1938年
ラジウム・ダイヤル社の元塗装工キャサリン・ドナヒューが同社を提訴、勝訴するが同年7月27日に死亡。
1938年
敗訴を受け、ラジウム・ダイヤル社は閉鎖されたが、6週間後、ルミナス・プロセス社と名を変え、工場を 開設。再び文字盤を塗る作業員が募集された。
1939-1945年
第二次世界大戦
⇒大戦中、ルミナス・プロセス社の経営者であるJ・ケリーは、工場を隠れ蓑に原子爆弾の原料となるポロニウムを生産していたと言われている。
1945年
8月6日広島、8月9日長崎に原子爆弾投下
1948年
アルゴンヌ国立研究所がオタワから約120kmの場所に建設
1954年
第五福竜丸がマーシャル諸島近海にて米軍の水爆実験により被曝
1968年
アルゴンヌ国立研究所内に人間放射性生物学センター設立、塗装工たちの被曝線量についての調査を開始
⇒被曝登録者は3,800人、このうち2,800人が夜光塗料産業関係者である。被曝基準制定の為に多くの被害者が協力、骨髄検査 などの生検に応じたが、被験者には報酬や補償が支払われることがなかった
1968年
USラジウム社、放射性物質を含む夜光塗料の使用を中止
1977年
ルミナス・プロセス社、安全規則違反を繰り返し操業停止処分
1979年
アメリカ、スリーマイル島原子力発電所事故
1979年
マーガレット・ルーニーの遺族がアルゴンヌ研究所による遺体の調査に同意
1980年
米国、スーパーファンド法(※3)設立 
1984年
イリノイ州、ルミナス・プロセス社の工場解体予算を承認
⇒1986年9月までにイリノイ州は650万ドルを社屋の除染に投入、同社の罰金は3万ドルだった。
1986年
ソビエト連邦、チェルノブイリ原子力発電所事故
1986年
米国環境保護庁がオタワ市の除染作業に着手
1987年
ドキュメンタリー映画『ラジウム・シティ』公開
1993年
人間放射性生物学センターによる被曝調査終了
2006年
米国保健福祉省、オタワ市の一部の地域が未だ通常よりも高い放射線量にあることを発表
2009年
米国環境保護庁、ニュージャージー州エセックス郡のUSラジウム社による汚染エリアの除染作業終了を発表
⇒除染作業は1991年~2004年までの13年間で、21,800万ドルの費用がかかった。
2009年
米国環境保護庁、4月下旬から7月にかけて160万ドルのスーパーファンドによってオタワ市の汚染エリアの追加除去作業をすることを発表
2011年
福島原子力発電所事故
2013年
米国環境保護庁、オタワ市の汚染16エリアのうちの2エリアの除染作業の変更を計画
⇒汚染土の入替作業は高額費用がかかるため、今後30年間は定期検査をしながらエリアの管理封鎖を提案。
※1 
USラジウム社の「UNDARK」、ラジウム・ダイヤル社「Luna」など、ラジウムの暗闇で光る性質を利用した夜光塗料。
ラジウム・ガールズの事件がきっかけでその危険性が周知されるようになったが、第二次世界大戦中は軍用の腕時計や計器の文字盤に多く使用され、生産された数は数百万個に上る。
塗料は1960年代まで用いられており、塗装に従事した工員は米国とカナダで延べ4000人に至ると言われている。

※2
ラジウムはカルシウムと化学的性質が似ているため骨に沈着しやすく放射線障害を生じさせる。
抜歯をした後に顔が腫れるなどの症状から始まり、貧血、白血球の減少、感染症、骨腫瘍などで亡くなる塗装工が続出した。

※3
1978年のラブキャナル事件(ナイアガラ滝近くのラブキャナル運河で起きた有害化学物質による汚染事件)をきっかけに設立された米国の環境法規。
過去の土壌汚染に関わる広範囲の関係者に、対策修復コストの負担を求める法律。汚染責任者が特定されるまで環境保護庁が、「スーパーファンド」から調査・浄化費用を負担し、将来それらの費用を有害物質の排出に責任を持つ事業者に負担させる。